沿革

北大皮膚科沿革

1923年(大正12年5月15日) 勅令第245号において皮膚泌尿器科学講座開講決定
1924年(大正13年10月20日) 初代 志賀 亮教授就任(同門会・甲子会創立)
1925年(大正14年2月16日) 外来診療開始(開講記念日)
1927年(昭和2年1月20日) 皮膚科棟完成
1932年(昭和7年7月15日) 第32回日本皮膚科学会総会開催
1935年(昭和10年12月17日) 志賀教授、病院長就任
1942年(昭和17年7月14日) 第2代 岩下 健三教授就任
1947年(昭和22年12月28日) 岩下教授、病院長就任
1949年(昭和24年4月1日) 泌尿器科を分離
1956年(昭和31年4月1日) 第3代 三浦 祐晶教授就任
1964年(昭和39年6月25日) 第63回日本皮膚科学会総会開催
1972年(昭和45年5月1日) 三浦教授、病院長就任
1978年(昭和53年11月21日) 形成外科を分離
1981年(昭和56年7月16日) 三浦教授、医学部長就任
1984年(昭和59年6月8日) 第83回日本皮膚科学会総会開催
1985年(昭和60年10月1日) 第4代 大河原 章教授就任
1996年(平成8年6月13日) 第95回日本皮膚科学会総会開催
1999年(平成11年10月1日) 第5代 清水 宏教授就任
2021年(令和3年1月1日) 第6代 氏家 英之教授就任

北大皮膚科の歴史

大正14年開講時のスタッフ 左から宮国、五井、志賀教授、高橋講師、能勢

志賀教授時代(大正13年~昭和17年)

初代教授 志賀 亮
大正13年~昭和17年

北大医学部創立前の大正7年、北海道帝国大学医学部創立委員会で決定された北大医学部教授予定者(11人)の中に皮膚泌尿器科学・志賀 亮の名前が見える。しかし、留学の為に赴任は大幅に遅れた。結局、大正11年に助教授として発令され、大正12年勅令第245号で皮膚科学講座開講が決定、大正13年に35歳で初代教授として着任している。この大正13年が甲子(きのえね)であったために北大皮膚科同門会を「甲子会」と名付け、外来診療を開始した翌大正14年2月16日を開講記念日として定め、今日まで引き継がれている。記念すべき外来開始第一号の患者はEczema seborrhoicum(脂漏性皮膚炎)と病歴記載されており、現在でもそのカルテは保管されている。
昭和2年にはコンクリート2階建て300坪のモダンな皮膚科棟が完成し、昭和7年には第32回日本皮膚科学会総会、第21回日本泌尿器科学会総会を主催している。志賀教授は在任期間中に病院長、北大評議員を歴任したが、その激務に体調を崩されて昭和17年に53歳の若さで退官されている。

岩下教授時代(昭和17年~昭和30年)

第2代教授 岩下 健三
昭和17年~30年

昭和17年7月14日に第2代岩下健三教授が38歳で就任された。当時、多くの教室員は応召中(召集に応じて軍務につくこと)、卒業生は軍医学校に直行するという有様で、一時は教授と医局員2名となるなど就任当初より講座の維持に大変な苦労をされたと記録されている。また、終戦まもなくの昭和22年には病院長に就任し、物資困窮の折、その労苦は増すばかりであった。しかし、自身が病院長時の昭和24年に皮膚泌尿器科より泌尿器科を分離させて皮膚科学講座と改称させている。また、昭和25年には札幌医大の開学があり、札幌医大皮膚泌尿器科初代教授として小室助教授、2代教授に外塚助教授が転出されている。昭和27年には北大泌尿器科に新教授として辻一郎教授を迎え(それまでは岩下皮膚科教授の兼担・教室員は両学問を修練するとなっていた)、名実共に泌尿器科が分離独立し、皮膚科が一本となった。しかしこの頃、岩下教授もまた初代志賀教授と同じく体調を崩されるようになる。決定していた第56回日本皮膚科学会総会を返上するなど、ついには教授退任を決意され、昭和30年12月に50歳の若さで退官されることになる。北大皮膚科は2代続けて主任教授が50代前半で退官することとなった。
岩下教授時代の前半は戦争の混乱期に合致している。しかし、この厳しい時期にあっても大学病院の使命である、研究、教育、診療が止むことなく立派に果たされたことは、教室史上誇りとするところである。

三浦教授時代(昭和31年~昭和60年)

第3代教授 三浦 祐晶
昭和31~60年

突然の岩下教授退官の後を受けて昭和31年に三浦祐晶助教授が35歳で北大皮膚科3代教授として昇任する。三浦教授はこの後29年間にわたり教室を主宰することになるが、長期安定した教室運営により北大皮膚科は大きく発展した。乾癬を中心とした研究成果と臨床への取り組みは世界中から高い評価を受け、大小多くの学会を主催することになる。特筆すべきは昭和39年と59年の二度日本皮膚科学会総会を主催したことであろう。在任中に総会会頭を一度も経験すること無く終える教授の多い中、二度の総会を主催することは極めて希有なことであり、北大皮膚科の躍進ぶりがうかがえる。だが全てが順風満帆だったわけでは無い。昭和33年、35年には火災により外来を消失し、昭和40年代は学園紛争と多難な時代でもあった。特に昭和45年頃の学園紛争の嵐は激烈であったようで、三浦教授退官記念誌にはこの時期を思い出として語られる先生が多かった。医学部長、病院長が次々と辞任するなか、最後の砦として白羽の矢を立てられたのが三浦教授であった。ともすれば暴力的、威圧的な学生に対し、三浦病院長は一歩も引くこと無く体制を維持したと記録されている。医局や研究室、教授室も襲撃、封鎖されるなど異常な時代ではあったが、団結して乗り切ったことが印象として強く残っているのであろう。三浦教授は昭和56年から医学部長となるが、医学部長=基礎系教授という当時の不文律を破ったことも三浦教授への信頼の高さを示している。三浦教授時代の思い出として野球を上げる先生も多い。三浦教授は医学部最初の運動部である準硬式野球部の初代部長である。当然皮膚科には野球部出身者が多く、医局野球でこの時代に皮膚科黄金期を築いている。
昭和51年には旭川医科大学が開学し、大河原章講師が初代皮膚科教授として転出し、昭和53年には皮膚科から形成外科班が診療科として分離独立し、大浦武彦助教授が初代形成外科教授として転出している。そして昭和60年、三浦教授は歴代皮膚科教授としてはじめて無事定年退官を迎える。

大河原教授時代(昭和60年~平成11年)

第4代教授 大河原 章
昭和60年~平成11年

昭和60年、旭川医大から大河原章教授が北大皮膚科4代教授として就任する。大河原教授は乾癬に対する生化学的アプローチのパイオニアであり、三浦教授の後を継いで乾癬研究を発展させている。更に教室では自己免疫性水疱症、リンフォーマなど多方面への取り組みも積極的に拡げられた。学会の主催というのは教室が一致団結して行う一大イベントであり、労苦は多いが教室の実力が示される最高の機会である。就任早々の第12回研究皮膚科学会(昭和62年)を皮切りに数多くの国際・全国学会を主催したことは大河原教授時代の大きな特徴である。特に平成8年の第95回日本皮膚科学会総会は印象深い。希に見る参加人数と斬新な企画の数々、国際色豊かで充実したプログラムに参加者から数多く賞賛の声が寄せられた。この時、後年第5代北大皮膚科教授となる当時慶應大助教授だった清水宏先生が、学会印象記を皮膚科英文誌(International Journal of Dermatology)に寄稿されていることは運命を感じさせて興味深い。また、大河原教授時代には同門から4人の教授が誕生している。昭和61年飯塚一先生が旭川医大2代教授となり、昭和62年金子史男助教授が福島県立医大教授へ、平成4年近藤滋夫先生が山形大教授へ、平成8年熊切正信助教授が福井医大教授に就任している。教授の輩出数はその教室の実力を反映している。その意味で大河原教授時代は北大皮膚科飛躍の時代と言える。そして平成11年に定年退官を迎えられる。
三浦名誉教授は大河原教授の退官記念祝賀会で次のように述べられている。「大河原教授が2度の海外留学で得た繋がりにより、教室からの海外留学が増え国際性豊かになったことは大きな功績の一つである」大河原教授時代は教室員を次々に海外留学へ送り、また海外から多くの留学生を受け入れた。これにより北大皮膚科の国際性を一層高めた時代と言える。

清水教授時代(平成11年~令和2年)

第5代教授 清水 宏
平成11年~令和2年

平成11年10月、北大皮膚科5代教授として、清水宏慶應大助教授が就任し、秋晴れの土曜日に膨大な段ボールと共に着任した。清水教授は教授就任祝賀会で「日本一ではなく世界で5本の指に入る皮膚科学教室を目指す」と挨拶された。着任早々に医局、研究室を大改造して環境を整え、教室年報を充実させ、世界への情報発信ツールとして積極的に利用した。さらに特殊外来を設置して高度な診断と治療を可能とする外来体制を構築した。清水教授は表皮水疱症の研究と診断、治療で世界をリードしていた為、北大皮膚科の研究テーマの重心は水疱症へシフトされた。これらの大きな変化にもかかわらず、効果はすぐにあらわれた。教室から発表される論文は一流雑誌へ次々と掲載され、遺伝性角化症、薬疹、再生医療など新しい研究分野へ展開している。また型にはまらない熱い学生講義ときっちりプログラムされた学生実習は毎年のように優秀科目賞を受賞するほど人気を得ている。このように北大皮膚科は、「臨床」「研究」「教育」のバランスが極めて高いレベルで保たれている。その結果すでに5人の教授を輩出している。清水忠道講師が富山医大教授へ、澤村大輔助教授が弘前大教授へ、西村栄美特任准教授が金沢大教授へ、秋山真志准教授が名古屋大教授へ、阿部理一郎准教授が新潟大教授へ転出されている。
清水教授時代はまさに、「あたらしい(北大)皮膚科学」の誕生であり、目標は実現しつつある。
北大皮膚科開講40周年記念誌の結びに次の一文がある。「この40年をかえりみて、今我々の周囲にその歴史を物語るものは次第に少なくなりつつあるが、しかし先人の培われた伝統は生き生きとしてなお我々の間に語り継がれている。そしてその伝統の上に立ってなお一層新しい世代に飛躍し、発展してゆきたい。これがわれわれ光輝ある北大皮膚科教室を継ぐものの念願である。」
100周年記念に思うこともまた、同じである。

『北大医学部 100周年記念誌』(2019年)より